執筆者:Naoko
冬眠者。
なんという甘やかな響きであろうか。
秋に眠りにつき、春の訪れを待つために眠る人々。彼らは、冬の間どのような夢を見ているのだろう。様々な動物たちと同じように、体温、呼吸、代謝を低くとどめ、冬の寒さや飢えを凌ぐための深い眠り。
かつてロシアでは冬になると、代謝が落ち、食べ物をとらず、1日中睡眠に時間を費やす人がいたらしい。季節性のうつ症状(冬季うつ)は、冬眠の名残りだと主張する学者もおり、人もまた厳しい冬の時期を過ごすため、冬眠を行うこともできるような体の作りになっているのかもしれない。

山尾 悠子の『ラピスラズリ』では、五篇の冬眠する者たちの物語が納められている。
澁澤 龍彦や中井 英夫の流れで若い頃に耽読していた山尾作品であるが、まさに長い冬眠についたかの如く20年物間、筆を執らずどうしたのだろうと感じていた折、約10年前の2012年に突如として発売されたこの作品。
幻想文学好きな方なら、読んだことはなくても、誰かに薦められたり、作家名や作品名について耳にしたことがあるかもしれない。
まず一番最初に申し上げたいのは、この作品は、恐ろしいほどに創造性とある種の文化的な素養を読者に要求する小説であるということ。
私自身、正直この小説を、過去購入した時点で何度か読み直したことをよく覚えている。言葉の迷路に惑い、酔わされながら、今回もその酩酊状態を味わうために読んでみた。
一度目は天井の高い教会めいた建築物と庭園に誤って迷い込んで逃れられないような感覚に陥り、
二度目は登場人物の多さにメモを取り、一人一人の個性に慄かされ、
三回目では本という同一平面状に、現在・過去・未来がいっぺんにやってきて、生と死とまた生の巡り、そして光を見出した。
何度読んでも、さらなる発見があったり、読み逃していた箇所が見つかったり、文化的素養・教養のない読者である自分自身の無知が思い知らされた。
宝石箱の中の世界
山尾悠子の小説を一言では表わそうとするのは、至極、愚かなことかもしれない。
頑張って表現するならば、緻密な細工が施された宝石箱を開けて、そこに納められた様々な天然の原石達 ー 湿度を感じさせるような縞メノウ、漆黒の黒さ人を惹きつけるブラックダイアモンド、ぷるんと潤んだ艶やかなルビー、禍々しいまでに妖しいキャッツアイ、そして天上の青とも言えるラピスラズリを見つけ、うっとりとした心持ちで宝石箱を閉じて満ち足りた気持ちになる、そんな小説と言えるかもしれない。
今回は『ラピスラズリ』五篇のあらすじに触れていく。
一篇目『銅板』
画廊を訪れた「わたし」は、テーマが分からないが心惹かれる三枚の銅版画を見付ける。
一枚目<人形狂いの奥方への使い>は、秋の終わりの森の中で、荷車に積み上げた十数人の男女の死体を使用人と思われる人物が、落ち葉の吹き溜まりに投げ捨てている。
二枚目<冬寝室>は、真冬の寝室で、部屋はおそらく塔の頂上付近に設置されていており、六角形の狭い床。窓から見える景色は、雪が吹雪いており、銀世界だ。
部屋の中には、寝台が置かれており、男性とも女性とも判別のつかない人物が寝ている。その傍らにはビスクドールと思われる人形が椅子に腰かけている。
三枚目<使用人の反乱>は、庭園の中で庭師の老人と旅装束の若者が話し込んでいる風景が描かれている。
「わたし」はこの版画を見て幼き頃に、母と訪れた画廊で、三枚の版画を見かけたこと思い出す。その版画もまた、この物語の一部を切り取った風景が描かれている。
二篇目『閑日』
第一篇の銅板画の三枚目を思わせる庭園の中で話し込む老人と少年。老人は人生の終わりが近づいているのを悟っており、老人を慕う少年は彼と熱心に話そうとしている。
場面は変わって、やはり第一篇の銅板画の二枚目<冬寝室>を思わせる塔の上の冬の寝室に寝ている冬眠者の少女。冬眠中に目覚めてしまって以降なかなか眠りにつくことが出来ず、塔に現れたゴーストと対話をし、孤独を紛らわせ、不思議な共存関係を築く。
三篇目『竈の秋』
この五篇のうち、最も長いのが本篇。
この物語の中で、支配層である冬眠者と、そしてその使用人たちの物語だ。
第二篇に続き、老人と少年や冬眠者の少女とゴーストが引き続き登場し、冬眠者の少女の血縁者や様々な使用人たちが登場し、彼らのクーデターや、疫病について描かれている。
使用人たちは、ゴードソング、ホランド、アーティチョークなどといったコードネームのような通り名で呼ばれているのも面白い。
冬眠者は人形を好むようで、人形をたくさんコレクションしている奥方が登場する。
四篇目『トビアス』
いつの時代かわからないが、日本の片田舎が舞台となっている。
時代、場所、登場人物こそ異なるが、三篇目と内容がシンクロしており、シチュエーションは似ている部分が出てくる。
四篇目の主人公の少女の家系の女性たちは、皆冬眠者のようだ。亡くなった祖母の法事でたくさんの親族が集まっているが、登場するのは女性ばかり。この女性たちは、代々メダイを継承している。メダイとは聖人たちが彫られたメダルや記念コインのことを指し、教会などで売られているを目にするだろう。
少女は聖フランシスコのメダイを持っている。
また、冬眠者である証に少女の祖母も古いビスクドールをたくさん持っていて、人形たちがひしめき合っている部屋が登場する。
五篇目『青金石』
舞台はまた変わって、西暦一二二六年のイタリア。
フランシスコ会の創設者であるカトリック修道士、アッシジのフランチェスコの晩年の話である。
第二編、第三篇に登場する少年に似た若者が、クリスマス・クリッペ(キリストの降誕場面を模したクリスマスの飾り物)を修道士に届けに訪れる。彼はいつからか冬眠者の体質となってしまったようだ。
啓蟄の日に目覚め、朽ちた塔に青いラピスラズリのような光が降り注いでいるのを見る。
カスケードされていく物語
この物語では、前の篇の要素を次の篇引き継いで、カスケード状に連なっている。
前の篇で詳しくは説明されていなかったことが次の篇で明かされたり、同一のオブジェが登場したり、かなり明確な伏線が張られている。
一遍目はプロローグとすると、二篇目~四篇目は全体的に死に秋から冬へと、死に向かっていくような方向性と彩度を徐々に失っていく寂しさを感じる。
最後の五篇目は、まるでその他の篇で登場した冬眠者たちが眠る塔と思われる廃墟なのであろうか、何らかの原因で冬眠者となってしまった若者が春に目覚めてたどり着く。
死からまた生が芽吹いてくるようなその光景は、復活の希望にも似たラピスラズリの青い光の筋は、若者の心を温かく揺さぶった。
また、若者が冬眠から目覚めた感覚を述べた言葉は印象深い。
「目覚めは発熱と瘧のような震えから始まり、赤子が世界への大いなる不満に満ちて足搔きながら目覚めるように泣き声が漏れます。空腹、それよりももっと大きな枯渇、死をくぐり抜けて再生できたことの安堵、微かな失望、入り混じるもののためにからだが悶えるのです。口に入った藁を嚙み、飢餓の味を噛み締めながら寝返ると人形が転がっていました。藁のなかに点々と散らばって、秋の終わりに未完成のまま持ち込んだのでしょう、よく覚えていません。」*1
季節は秋から春へと廻り、前の季節の匂いを引き継いでいく。
生と死とまた生と・・・。
万物の循環と同じように、カスケードしていく物語。
最後の1つだけ、人形についての考察をさせていただきたい。
長い時間をかけて古びて朽ちていく人形と、冬の間年を取らない冬眠者達は、人形と近い存在であるから、彼らはそれを愛するのかもしれない。冬眠者のそばにあって、彼らが体験しえない冬という季節を体験してくれる存在。
また人形は、様々な時代の物語を繋ぎとめるオブジェ、一つの視点として登場してくる存在、と思索した。
引用元:*1 ちくま文庫『ラピスラズリ』山尾 悠子
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