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裸足の森歩き

  • 執筆者の写真: Naoko
    Naoko
  • 2021年10月23日
  • 読了時間: 7分

更新日:2022年5月27日

執筆者:Naoko


裸足で森や野山の中を歩いたことはあるだろうか?

私はまだその経験はない、というか、これからも経験することはないだろう。

あまりにも無防備すぎて恐ろしいし、見ているだけで下半身がこわばるのを感じてしまう。

ごつごつした岩で足をくじくかもしれないし、茨が足に刺さるかもしれない、そう考えると恐ろしくて堪らない気持ちになる。



3年ほど前に、奈良の三輪山に行った時のことだ。

三輪山には、奈良の桜井に現存する日本最古の神社と言われる大神神社がある。

文学好きな皆様なら共感いただけると思うが、三島 由紀夫の小説『豊穣の海』シリーズの『奔馬』に登場した”あの三輪山”である。


大神神社の御神体は、三輪山そのもので、登るというよりも登拝するというのにふさわしい場所で、もともとは禁足地である。

私と友人は三輪山に訪れるのは初めてだったし、裸足で登る方がいるもの知っていたものの、さすがにどのような山道かわからない状態で裸足で登拝するのも難しいと判断し、靴を履いた状態でお参りさせていただいたが、裸足、白装束での参拝姿の方もちらちらと見かけた。


登拝のルールは、こうだ。

・まず大神神社で神主さんからお祓いをしていただく。

・いただいた襷をかけ、参拝口よりお山に入る。

・登拝中は、飲食禁止、私語厳禁、カメラ禁止、生き物を傷付けてはいけない。

・登拝中の出来事については、他言無用。


山(ご神体)の中で起きたことは詳しくは語れないのだが、裸足でお山に入られている方々の真摯さに心を打たれたのと同時に、森や山の中で裸足であるというのは一体どういう感覚になるのだろうか?と本能的に身をこわばらせながら、裸足の巡礼者達を畏敬の念で眺めるばかりだった。



少女の足取りは軽い


文学や映画では、裸足で森の中をニンフのように少女たちが、歩き、駆け、踊り、遊ぶシーンが象徴的に登場するシーンがある。


映画『ピクニック at ハンギング・ロック』や『エコール』などはその代表作品だといっても良い。なぜかリアルな体験として、裸足で自然の中を歩くのはもの恐ろしいと感じてしまうのに、映像作品だと苔むした地面を歩く様はふかふかの絨毯を踏んでいるが如く心地よさそうに見え、少しいたずらな妖精たちが軽やかに舞い飛ぶような官能性を感じずにはいられない。


本日は、2004年に公開された映画『エコール』の原作にもなった、フランク・ウェデキントの『MINE-HAHA』についてお話したいと思う。


フランク・ウェデキントは、日常的に観劇をされている方ならもしかすると見たことがあるかもしれないが『春のめざめ』という戯曲が有名だ。日本だと劇団四季が自由劇場で10年以上前に公演していて、私も身近な人たちと一緒に観劇したのを覚えている。


『春の目覚め』は戦争や性的無知による悲劇の色合いが濃く観劇後、暗鬱な気持ちになったのを覚えているが、ウェデキントの作品は、ずばり少女の性を描いたエロティシズムを秘めたものが多い。


小説『MINE-HAHA』は、ウェデキントの隣人である老女、ヘレーネ・エンゲルの特異な少女時代を綴った手記を、彼が読むという形式をとった作品構成となっている。


老女の手記は、森の中の寄宿舎に始まり、そこから外の世界に出るところまで幻想的で謎めいた物語として綴られている。


森の中にある寄宿舎には、男女の子供たちが集められて生活している。彼らの躾、教育は、その中で姉のような存在のゲルトルートという少女が行っている。

ゲルトルートは、幼い子供たちを木の枝で打擲するなど必要以上な厳しさをみせるが、凛とした佇まいやある種の風格や美を備えており、ヘレーネは彼女に思慕に似た感情を寄せている。


幼少時代の数年間この寄宿舎で過ごした後、ヘレーネは、木棺に入れられ外に運び出され、森の中の少女だけ集められたの別の寄宿舎に移される。

※ヘレーネはこの場所では、何故か「ヒダラ」という名前で呼ばれる。


この寄宿舎は驚くべきことに間隔をあけて30棟ほど建てられており、彼女はそのうちの1棟で、年齢も個性もそれぞれ異なる見目よい少女たちと暮らすことになる。


少女たちは日がな、自分に割り当てられた楽器を演奏すること、ダンスの練習をすることを日課とし、量は少ないが美味しい食事にもありつけている。

物語の後半で、この寄宿舎がどのような資金で運営されているかの謎も明かされるが、つまるところ、ここは商品価値のある美しい少女を作るための製造工場といっても良い場所なのである。


漫画に詳しい方なら既に読んでいるかもしれないが、食用児たちを育てるための施設を描いた漫画『約束のネバーランド』を思わせるような設定でもある。この小説が書かれたのは、今から120年弱昔だから、『約束のネバーランド』はこの小説に着想を得て描かれたものなのか?と、かの漫画を読んだ時には思った。


話が脇道にずれたが、この小説で執拗に描かれているもの、それは少女たちの”足”の描写だ。それはもうフェティッシュさを全く隠さない描写で、読んでいて恥ずかしさを覚えるほどだ。


最初の寄宿舎での指導役のゲルトルートの足の表現。

「 柳の枝を指先で撫でながら、ゲルトルートはわたしたちひとりひとりに微笑みかけた。そしてスカートの裾を膝の上まで持ち上げてみせてから、彼女は手本を示す。膝をすこし上げてつま先立ち、ゆっくりと踵を下ろした。親指と向こうずねとでまっすぐな線を形作るまでは、けして踵を下さなかった。ふくらはぎのちょうど真ん中に届かないくらいの白い靴下に、黄色い編み上げの靴を履いた細い脚。丸くて華奢な膝は、踵が地面に触れるのと同時に伸びた。」*1


1903年にこの本を出版した際に検閲がなかったのか気になるところである。

映画『エコール』も、児童ポルノなのではないか?と不快感を示す人も多かった。なぜかそういった意見は男性に多いようだが、女性の私としては彼らとは別の感情が湧き上がってくる。


エロティックな部分が際立つ作品ではあるものの、女優の市川 実和子が翻訳を行っていて、女になる前の少女たちが持つ一瞬の煌めきを一滴も逃さずに、文章として結晶化させている。市川 実和子の新たな魅力に触れたようで、とても嬉しく感じた。


森の中で少女たちが裸足で川遊びをしている描写は、人ならざるもの、妖精や精霊を描いているかのようだ。

そこに軽やかさはあっても、重さは存在せず、重さが存在しないから、裸足での痛さとは無縁なのだ。きっと大人の女は、胸や尻の肉付きが良くなりずっしりと身体が重くなり、裸足で森を駆け抜けたら、さぞや足が痛いに違ない。


リアルな体験の森歩きについて、想像するだけで体がきゅっと縮こまってしまうのは、私自身が”身体が重い”大人の女だからかもしれない。気持ちだけは少女の感性を保っていたいと願っていたが、残念ながらどうにももう難しいらしいことが分かった。


そして締め括りにも、もちろん足の表現が登場する。


寄宿舎に住む少女たちは外の世界に出ることに未知なる世界への憧憬を持っていて、ヒダラが少女から女性に成長し、「靴」を履いた状態で寄宿舎を出るところで終わる。


自身の体重を支えるために

大人になるために、

「靴」が必要なのだ。



年を重ねること


最後に、少しだけ足の話から逸れるが、この小説のテーマの一つである「少女」と「大人の女性」の対立構造と、「少女」から「大人の女性」への変化への戸惑い、葛藤について触れておきたいと思う。


その前にこの小説のタイトルである『MINE-HAHA』という言葉について少し解説したい。

”MINE-HAHA”とはネイティブ・アメリカンの言葉で、『MINE』=「水」、『HAHA』=「笑う」、合わせると「笑う水」という言葉のようだ。


物語の中で「水」は、「性の目覚め」を意味している。

噴水、川遊び、森の湿った土、至る場所に「水」が象徴的に登場する。


途中で脱走しようとして川で醜く死んでしまった少女が出てくるのだが、これも「性の目覚め」を拗らせて、命を落としてしまうことに関するメタファーなのかもしれない。

『春のめざめ』で、性的無知で子供を授かり、堕胎に失敗してなくなるヒロインにも通ずるところがありそうだ。

性に目覚めたのにそこにいてはいけない者がいたために、罰が与えられたかのような酷い死に方だ。


ウェデキントは、初潮を迎えていない少女たちは美しく神聖なものとしてとらえている一方、大人の女が汚らしく、醜いものとして対極に置いている。


だが「少女」は、いずれ「大人の女性」になっていく。どうしたってこの流れは止められない。少女時代は短いからこそ、何にも代え難い瞬間で、すべての女性にとっての貴い宝物の1つなのだ。





引用元:*1,*2リトルモア『MINE-HAHA』フランク・ウェデキント、翻訳:市川 実和子

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